
伝説のロックシンガー尾崎豊さんプロフィール
1965年(昭和40年)11月29日 – 1992年(平成4年)4月25日)
“File:Relief of Yutaka Ozaki at Shibuya Cross Tower in Shibuya, Tokyo.jpg” by 李桃桃内 is licensed under CC BY-SA 4.0
アーティスト活動の原点は自衛隊のある街・朝霞キャンプ・ドレイク
練馬ではグラントハイツ(現:光が丘公園)で「米軍キャンプ」を代表として曲の中で表現されている。
朝霞ではキャンプ朝霞、これらの地はキャンプ・ドレイクと呼ばれ米軍の基地があったエリアです。
現在は、自衛隊や公園などの公共施設に生まれ変わっています。
尾崎豊の父、尾崎健一さんは2018年に亡くなっており、朝霞の実家には現在誰も住んでいない。
住宅の隣接している狭いエリアなので、記念館などを作る事は難しく、兄の尾崎康さんによれば将来、取り壊す意向との事。
青春時代に多大な影響を受けた尾崎豊の実家を見てみたいと思い、取り壊される前に
現地に行ってきました。
これから現地を訪れる方の参考になる事を意識しています。
近年、見かけるツーバイフォーの家では無く、昭和の時代を体感できるこじんまりとした建築物。ここで後世に残るロックアーティストは、ギターに目覚め才能を開花させていく。
1ファンの願いとしては、何処かに移築してもらい、保存して欲しい。
取材時の2020年(令和2年)は、コロナウィルスの流行により、社会構造が一気に変わる歴史的な時期であり、非常事態宣言下の中、飲食店・サービス業の多くなど全ての業種の人が先の見えない危機と不安にさらされている。
尾崎の実家近くには、真新しい看板の整骨院が営業していました。
これだけ解りやすい目印があれば、絶対に迷わないでしょう。
ファンの間では有名な駄菓子店「太陽堂」のすぐそばにある、朝霞市内循環バスの「溝沼4丁目」停留所。
太陽堂は、昭和の子ども達が夢中になった駄菓子やコインゲームなど、当時の文化がリアルに感じられる貴重なお店です。
バスは1時間に1本も無く、東武東上線 朝霞駅までは、毎日徒歩で通っていたのだろう。
Googleマップの情報では徒歩で約20分、駅近の物件を好む現代人には結構な距離だ。
駅までの道のりを繰り返し歩く事によって、彼の鋭い視点、観察眼は磨かれていったのだろう。
ハイスクール Rock’n Rollの歌詞の序盤にある「そして ぞろぞろと駅へ歩く人達に まぎれ込んで 俺も歩いてゆくよ」というのは、この朝霞の実家付近から朝霞駅までを歩くことによって、追体験出来るし、よりリアルな物に感じられるでしょう。
現在の朝霞駅は、商業施設(EQUIA朝霞・記事冒頭の画像)も出来て広く綺麗になっているが、尾崎の学生時代の駅舎は、もっと古くて汚い物だったはずだ。
画像が見つからなかったので、今後見つけたら更新したいと思う。
海外(Ebay)ではほとんど知られていない
アジアを始めとした海外のアーティストにカバーされているようだが
尾崎の歌詞は、当時の若い世代の心を揺さぶる日本語の完成度の高さや
若さから、ほとばしる熱量にあったので、海外の人には恐らく響かないだろう。
2020年の5月に「yutaka ozaki」で検索した結果、直近で売れていたのはアメリカのセラーが
販売した「誕生」と「放熱の証」の未開封のCD1点だけでした。
価格は$34(日本円換算・3660円)
アメリカ育ちの二世・尾崎裕哉にも才能の片鱗が垣間見える
二世という自伝を2016年に出版している尾崎豊さんの長男「尾崎裕哉さん」
父の記憶は無いようだが、楽曲は繰り返し聞いており、リスペクトしているそうです。
アメリカ社会で育った為、英語も堪能で、社会問題にも詳しく
マーティン・ルーサー・キングのスピーチに影響を受けて
音楽を通じての社会活動をしています。
彼もいつの間にか父の亡くなった年齢を過ぎ、30歳になりました。
ファンに求められれば父の曲を歌い、父が生きる事が出来なかった年齢を
生きて独自の創作活動に励んでいます。
アメリカと日本の価値観を融合して、新しい表現を生み出しています。
始まりの街
Glory days
27
熱烈なオールドファンは、彼を否定するのか?肯定するのか?
近年は尾崎豊と自身の曲をオーケストラで演奏するコンサートなども開催しており
コロナ騒動が沈静化した後、尾崎ファンなら一度会場に出向いて聞いてみたい。
会場に行けない人もYoutube musicやSpotifyなどの音楽配信サービスで、
彼の曲を聞くことが出来るので、受け継がれたDNAに秘められた静かな力を感じ取ってほしい。
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