同じオリンピックでも令和版は熱量が薄すぎる件

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八月に入り灼熱の太陽もあと僅かかと思い、今の若者は海水浴にも飲みにも行けないし、随分不自由な青春だと中高年の私などは思うのだが、都会で暮らす彼らの一部は決して辛そうには見えない。

昭和の時代と違って、ネットを駆使すれば高価でぶ厚い本が無くとも生きては行けるし、結婚とか子育てを放棄すれば、悩まずにそして気楽に生きれるのかもしれない。

昭和を悪く言う訳ではないけど、金を使わせる仕組みがいちいち面倒だったし、随分と要らないものを買わされてきたと僕なんかは思っているところです。

家電量販店で買うパソコンは初期の頃は直ぐ壊れて、高い費用を請求されたり、自動車は4年で買い換えるものだと思いこんでいたし、家は借金を35年ローンで買うというルールが当たり前だった時代。

小さなマイホームを、買って子育てをしながら、平日は郊外から都心部のオフィスへ満員電車で通勤する。これが社会の常識とされ誰も疑いを持たなくなっていた。

つまらない仕事を片付けて、夜の繁華街へ繰り出して、本能と野生を開放する夜の欲望の街も今や風前の灯だ。

頑張って休日返上で働けば、給与とボーナスが保証されるならば、そんなキチガイじみたローンを組む事への不安も低減されただろう。

対して令和時代は荒れ模様のスタート、立ち上がりでうつ病、離婚、失業、ルンペン、自殺など全く珍しくないし、太宰のように不幸を売りにしてコンテンツを作るパターンなど現代には全く通用しないのです。

安定した、いやしているように見えている雇用形態があれば、風来坊の不幸話も際立つものだが、もはや高みの見物を出来る余裕のある人が少なくなってきた感が強い。

誰かの人身事故のアナウンスがあっても、何だまたかよといった慣れが都会人にはあって、極端なやつは動画を取ってSNSでアングラ週刊誌のような振る舞いをしてしまう等、何だか世の中オカシイと思う。

昔から人間社会にはキチガイじみた凶気が存在していたようで、江戸時代には犯罪も火災も多かったらしく、日本文化の美だけを妄想するのも誤りなのだろう。

民主主義が標榜される前も後も、一般人とは悲しいほどに小さな存在で、ほとんどの人の名前は歴史に残らないし、下手したら墓石すら残す事も怪しかったりする。

でもなんだか風向きが少しだけ変わったように僕は感じている。

白亜のマイホームや海沿いの別荘は絶対に買えないたろうけど、借りることや体験することは出来る。

海外へ行く金、女と遊ぶ金が無かったらVRの仮想現実に逃げ込んで、脳を騙せばいいだろう。

見栄や偏見を無くした後、僕らに残るのは一体なんだろう?

一生を終えるまでにやるべき事、ライフワークを見つけられたら、十分に幸せなんだと、最近思うようになってきた。

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